名古屋刑務所天理教祭に参加して

 去る十一月六日名古屋刑務所にて天理教祭が開催されました。当日は前会長様祭主のもと、前半がおつとめ・講話。後半はジョイフルサウンズの演奏が行われました。常の事ではありますが受刑者・刑務官の皆さんの心が少しでも安らぐように努めさせて頂きました。今回愛知教区布教の家の方にもお手伝い頂き、参加者の声を紹介したいと思います。

鈴木 晴雄(31才)

 今回は、名古屋刑務所の天理教祭に出させていただき誠にありがとうございます。収容者の前で踊るおてふりや鳴りもの、とても緊張しましたが、終わってみると「アッ」という間だったなと感じました。ここに収容されている人たちは、今どんな心境なのか一人ひとり聞きたいですが、いろんな答えが返ってくるのではと思います。
 先日、テレビを見ていて、交際相手に女性がガソリンをかけられ、全身をヤケドした状態で奇跡的に助かった人のニュースを見ました。その治療した費用は、加害者が払えず、刑務所に収容されている人は全部税金でやっているのに、その被害者は、自分で何とかしなくてはい、そんなやるせない気持ちになりました。
 私たちは親神様から素晴らしい徳分をいただいて生まれてきていると思います。だから徳分一杯の人生であると言えると思います。それが喜べないと言う事は、それが喜べる様に、心に花を咲かせていける様に、私たちが日々廻らせていただいているにをいがけ・おたすけをしていかなくてはと感じました。ここに収容されている人たちは、人に害を与えた人、自分に害を与えた人もいると思いますが、刑務所から出るときは、人に喜んでいただかれる様な人になってもらいたいと思います。貴重な体験をさせていただき誠にありがとうございました。

 

和久田 喜治(25才)

 刑務所は自分が想像していたものとは全く違うものでした。おつとめをする場所も、畳の敷かれた場所でするのかと思ったら、実際の場所はとても広い、そして最近建てられた講堂でした。
 始まるまでは緊張はしていませんでしたがいざ始まると、緊張のしっぱなしでした。
自分は、雅楽、座りづとめのチャンポン、よろづよ八首のおてふりをつとめさせて頂きましたが、終始収容者の方を見る事も出来ず、ひたすら「教祖!」と心の内で唱えながらつとめさせて頂きました。こんな緊張して一生懸命つとめたおつとめは初めてでした。
 昼食は、食べても減らないうどんではなかったのは残念でしたが、この天理教祭は良い経験となりました。
 藤井先生が、「教祖はおつとめして監獄所に連れて行かれた。今は刑務所へ行っておつとめをさせて頂く。これほど教祖がお喜びになっていることはない。すばらしいにをいがけだ。」と言われました。
 今回の天理教祭は本当にすばらしいにをいがけをさせて頂いたと、この機会をお与え頂いてとても感謝しています。
 ありがとうございました。

 

 

 

徒歩団参参加者の声

 五月二日・三日に大教会から天理までの道程六十五キロを歩かせて頂きました。今回は大教会青年会の活動に参加させて頂いた訳ですが、浪一の関係からもサポート部隊を含めて十名参加させて頂きましたので、参加者の声を紹介したいと思います。

森  道男(浪四・後継者)

 前回の徒歩団参で、非常に辛い思いをして完歩した記憶が残っていたので、マメができないように足の裏に石鹸を塗ったりと、いろいろ対策をして、逃げだしたい気持ちに鞭打って今回の徒歩団参に臨みました。 
 しかし徒歩団参をしていて、いつも思うのですが、先人は一つのお助けにかかる度に、おぢばまで足を運び、理を頂戴したと聞かせて頂きます。そんな事を思うと、なんとも情けない自分だなと反省しております。
 今回はチビッコが多く参加してくださって、大変賑やかに楽しく団参ができたと思います。みんな次回も頑張ろうね!おじさんは伴走車から応援するよ!

 

水谷 彰宏(浪一・15歳)

 二日・三日と大教会から本部まで歩いた。まず一番の感想は、疲れた〜と、足が痛い〜だ。いやいやこんなに歩くのは初めてだから、きつかった〜。とくに一日目はくつがあってなかったからめちゃくちゃ足が痛かった。二日目は、サンダルで歩いたらくつよりはましだった。でも筋肉痛になちゃった。筋肉痛が残りつらかった。でも、歩いて見るもんだなァ〜。遠かったけど、人間って、やればやれるじゃん。と思った。これって人間の潜在能力なのかーと思った。

 

藤井 貴信(浪一・11歳)

 ぼくが歩いて一番つらかった道は、下り坂です。とても急で歩くのがたいへんだったから下り坂です。それとよく車がとおるのできけんでした。とちゅう車にのってしまおうかと思いましたが、みんながいっしょうけんめい歩いているので、ぼくも下のほうまで歩きました。
 天理までつくと本当につかれて足がいたくなってきたけど、本当にうれしかった。詰所のほうにつくとお風呂がわかされていてすぐに入りました。とても気持ち良くて二日分のつかれがとれたように思えました。来年も行きたいです。

 

藤井 裕樹(浪一・9歳)

 二日目さいしょから毛のないおじさんとエアーサロンパスをかけあいながら歩きました。元一と花は、車に乗ったり歩いたりしていました。とちゅう、車でいどうしましたが、坂がいっぱいあったのでこの坂歩かなくてよかったと思いました。昼ごはんはラーメンをたべました。さいごの坂は、すごく足がいたかったです。天理についたらさんぱいをしました。それから詰所にいっておふろに入りました。おふろから出たらアイスをたべました。それからラーメンをたべました。
 またこんど行きたいです。

 

アフリカ布教に参加して

浪四分教会森 道男くんの会社の同僚で、愛知大教会所属 枇杷島分教会の今村博行さんが、高安大教会部内 渕和分教会「お助け隊」の方々とアフリカへお助けに行かれました。
詳しくはお助け隊ホームページへ→http://otasuke-tai.net/

今村 博行(枇杷島分教会)

 ほとんど初めての海外旅行がアフリカだった事は幸か不幸かわかりませんが、飛行機の18時間ぶっ通しは少し参ってしまいました。なにせタバコがすえないのです。それから、運動不足の上に短い間隔で食事が出るので食べてばかりで、今流行の鶏になった気分でした。
 さて、アフリカ体験ですが、その前に今回、山崎さんを中心に14名の方が参加しました。皆さん個性が強く、移動中のバスの中やレストランの食事などは、おなかが痛い程笑わせて頂きました。ほんとに皆さん芸達者! おかげでリラックスした気分で、おさづけも現地の人たちとの交流も出来た様に思います。
 おもにおさづけを取り次いだ地区は、山崎さんの出張所があるマサカ(県)のナプトンガ周辺です。印象は、とにかく道路というか道が少ない。その数少ない道に沿って民家がポツポツと続いている。お店といえば、ほとんど同じ様な形の建物で、コカコーラの看板だけがやたら目についたのは僕だけ? とにかく土が赤い。バナナの木ばかり。かなり貧しい地区というのは誰でもわかる。子供たちはあたり前のようにボロをまとっている。ほとんど裸足である。普段着はとことんかまわない! 贅沢は許されないのである。働く場も少なければ、お金を稼ぐこともままにならない… ほとんどが自給自足なのでしょうか? 日本の中では僕は貧乏だとはいえても、地球規模でいえば恵まれた生活をしている事になるんですね。でも現地の人たちはそれがあたり前、だからそれなりに毎日の暮らしを楽しんでいるのか気さくで明るくよく笑う。逆に自然と共に人間らしい暮らしを満喫しているかの様にも感じられる。そんな人達にわずか10日間の期間、おさづけを取り次ぐ事が何程になるのかとも考えさせられると同時に現地の人達と同じ様な生活の暮らし合いの中から、おさづけを取り次がせて頂かないといけないなとつくづく思いました。
 シンバさんと純子さんはもちろん、山崎タカミツさんとヨシエさんの若い力と情熱が大きな実を結ぶ事と思います。いつか協力できる日が来る事を楽しみにしています。

 

 

名古屋刑務所天理教祭に参加して

 去る十一月八日名古屋刑務所にて天理教祭が開催されました。当日は前会長様祭主のもと、前半がおつとめ・講話。後半はジョイフルサウンズの演奏が行われました。
 常の事ではありますが受刑者・刑務官の皆さんの心が少しでも安らぐように努めさせて頂きました。参加者の声を紹介したいと思います。

田邊 幹善(一越・後継者)

 以前から名古屋刑務所の天理教祭のことは聞かせていただいていて、機会があれば一度参加させていただきたいと思っていましたので、今回お声をかけていただき、ありがたい気持ちで勇んで参加させていただきました。
 正直申しまして、行く前は興味本位という気持ちが先に立っていました。しかし、行く道中で浪一の前会長様より、開催の認可が下りるまでの七年という長い道中の話、また、なによりも大きな大きなにをいがけおたすけの場であるということを聞かせていただき、心あらためて、身を引き締めて会場入りさせていただきました。
 実際、祭儀式、座りづとめ、よろづよ八首と、わずかな時間ではありましたが、会場全体の空気がピーンと張りつめ、100人以上の受刑者に向かってつとめさせていただいたよろづよ八首の緊張感は、これまでに感じたことがないもので、一振り一振りの手にいちいち緊張感を持つと共に、受刑者の方々にその一振り一振りの手を見ていただいて何かを感じ取っていただきたい、たすかっていただきたいという思いで振らせていただきました。
 この貴重な経験を通して、「誠心を込めたおつとめ」の何たるかを、自分の中で一歩進んだかたちで、身をもって勉強させていただきました。ありがとうございました。

 

齋藤 和弘(中野・よふぼく)

 初めて参加させて頂きました。最初にこの参加の話を頂いた時、貴重な体験をさせて頂けると思う反面、私にこんな大役がつとまるだろうかとの、一抹の不安もありました。
 私にとって刑務所というのはテレビや映画からの知識しかなく、非日常の世界であった為に、最初に塀の中に入った時、どのように振舞って良いのか分からず戸惑いました。また、収容者が整列して号令をかけながら会場に入っていく姿を見た時は、自分が収容者になったような錯覚さえ起きました。
 そんな気持ちでしたので、いざ祭典が始まると頭の中が真っ白になってしまい、鳴物を打ち間違えてしまう程でした。だんだんと心が落ち着いてくると、鳴物、またおてふりの手の一つ一つに心を込めて、収容者の方々のたすかりを願いながらつとめさせて頂きました。
 藤井先生が刑務官の方々と談笑されている姿を見、また話の内容を聞かせて頂いた時に、「教誨師」という活動は、本当に社会に誇れるものだと感じさせて頂きました。そして、私が天理教祭に参加させて頂き、その活動の一翼を担わせて頂けた事を心からありがたく思わせて頂きました。願わくば、このすばらしい活動がもっともっと教内に取り上げて頂き、広く認知して頂きたいと思わずにはいられません。貴重な体験をさせて頂き、本当にありがとうございました。

 

森 道男(浪四・後継者)

 今回の参加で天理教祭は2回目となりますが、何度行ってもやはり刑務所でのおつとめは慣れません。
 天理教祭は受刑者の方々の前で、「祭儀式」をしたり、「おつとめ」をするのですが、とりわけ「おつとめ」をする時、ちょうど学校の体育館の舞台のような所から、受刑者さんの方を向いて、おつとめをするのです。これが一番嫌で大変緊張します。普段のようにできればいいのですが、何百人もの目があると調子が狂います。今回初参加された青年さんなんかは、ビックリされたことでしょう。
 今年の天理教祭をしていて、ふと思ったのは、教祖ならびに高弟の先輩方が監獄所へ何度もご苦労された歴史です。当時はおつとめをするにも官憲の取り締まりが厳しく、それこそ命がけでおつとめをされたと聞きます。
 普段私は朝夕のおつとめを、何の気に無しにさせて頂いておりますが、あたりまえの事があたりまえでない、先人の並々ならぬ努力があってこそ、今が在るのだと思わせて頂きました。教祖120年祭が近づいている今、改めて教祖が定命を縮めてまでせき込まれた「おつとめ」を真剣に誠心を込めて勤めなければならないなと、反省させて頂けた天理教祭でした。

 

 

 

バヌアツに行って

 教会に参拝に来られている曽我えり香さんが、先日大阪の歯科医師の先生と共に、オーストラリアの東に位置するバヌアツ共和国の無医島にボランティアに行きましたので、その感想を紹介します。

曽我えり香(21歳)


 私は、七月十二日から七月二十一日まで、南太平洋に浮かぶバヌアツ共和国へ、歯科助手のボランティアとして行ってきました。
 この国はまったく西洋の影響を受けてない島などもある大小に点在する島国で、次元の異なる国での私の生活は、偏見を越える事と、あるがままの自分を受け入れる事で始まりました。
 私はタンナ島へ行ったとき何かを期待していました。もっと人々は私達に頼ってくると思っていました。けれども、私は逆にバヌアツの人々から様々なものいただきました。
 いつも言われるように、このような発展途上の国では、物質は豊かじゃないけれども、心が豊かだという事を実感しました。私は、原住民達の心の強さに触れました。
 心というものはやはり、文明というよりも、自然と人との触れ合いによって築き上げられるものだと今回痛感しました。そして原点へ戻ると人間は、同じ心を持っているという事。
 タンナ島では、なぜかとても明白に自分の将来の事を考える事ができました。なぜだろうか。たぶん私の外見や、外を気にしなくてもいいから、そのぶん自分のあるがままの姿を直視する事ができたのだと思います。これからまた雑念の多い生活へ戻ると考えると、今の思いを忘れたくない気持ちで一杯です。
 タンナ島の人達は、飾り気がまったくなく、実生活をそのまま見せられているような感じがしました。そして、たとえ私の目から見たら万全な環境でなくても、ここの島の人達は、彼らなりの文化や生活があり、これはとても尊いものであり、勝手に手を加えたり、壊したりしてはいけないものだと思いました。
 けれども、この力強く日々生きていく人達に何かの形で、援助の手をかす事ができれば、私は私の範囲内で頑張っていこうという気になりました。
 この素晴らしい環境の中で、将来の事を考え、自分というものと向き合う機会を与えて下さった皆様に私は感謝しています。また来年、人生の中でどのような環境にいるか分からないけれども、この会にまた参加できれば幸いであると思います。
 また来年の七月を楽しみに、今年を頑張りたいと思います。ありがとうございました。

 

 

御 礼 参 拝(6月号掲載)

山中 一(浪三)

 私は今回修養科・二ヵ月隊・検定講習前期を修了させて頂いた御礼に、徒歩にて御礼参拝をさせていただいた。五月十四日深夜に天理を出発し、信楽で一泊し大教会へ、大教会から南濃分教会で一泊し、浪一・浪三へと歩かせていただきました。
 これだけの距離を歩いたことがない私は、歩く道中に様々なことが浮かんで来ました。ひとつには、修養科や検定講習で教えていただいたことが、フッと浮かんでは感心させていただけました。歩いていることでもそうです。はじめは歩かされている気がどこかしていたのですが、かしもの・かりもの教えを体験していると感じたし、また、修養科生活の中で一生懸命頑張っても、その逆で悔しさがあり思うようにならなかったりしたことも、きっと神様が私に遠回りして教えてくれたのかも知れないと感じました。私自身お道の信仰とは社会において出来ないことをするのがお道の信仰だと思っているので、とにかく理を信じて歩いたので、歩き切ることができたのだと思います。
 修養科中はいろいろな先生にお世話になりましたが、その中でも特に鯱天分教会の暮石先生にはお世話になりました。暮石先生が教養掛となり私の心を洗濯してくれました。先生のスタイルから陽気ぐらし、ひのきしん、たんのうの意味をよく学び、私自身から勇んでいくことが道につながっていくことだと学びました。お話をしていて理解で出来ないことでも、体を使って気持ち一つで理解できることを教えてくれたのが特に印象に残り、楽しかったです。鯱天分教会の暮石先生ありがとうございました。
 基本をなくして成長はしていかない、大事なことを忘れて成長しても、理にならない。基本を忘れないからこの教えが光を放ち、理が残ってくるのだと思います。
 今回歩きながらや、宿泊して感じたのは人のぬくもりでした。お世話になった長里分教会、中野大教会、南濃分教会、浪三分教会、浪一分教会の皆さんの協力によって勇気づけられて歩くことができました。
 最後に、大教会から南濃分教会への長い道のりで、湖東町で道を尋ねた時にお弁当とお茶をくださった戸田武彦さん本当にありがとうございました。
 一期一会の出会いを今後とも大切にしていきたいです。本当にありがとうございました。

 

 

おぢばで思うこと(2月号掲載)

畔柳 順一(浪三・会長)

 私はおぢばの冬が好きです。特に冷えこんだ朝。白い息を吐きながら神殿に参拝しておつとめをさせて頂く時、頭の先から体中が
ピーンとして心が引き締まる。真剣におつとめを唱和する中に、心が段々と洗われてくる思いがします。この時が、神様と一対になっているのだと感じます。
 心の成人の早道は、おつとめを真剣につとめることと聞かせて頂きます。私はおつとめを通して絶えず心の切り替えをさせて頂くよう心掛けています。
腹を立てたら神殿に行っておつとめ。不足に思ったらおつとめ、と言うように何につけても神様の御前に行って、心の切り替えをさせて頂くよう心掛けています。不思議におつとめの最中に良い考えが浮かばせて頂けます。誠におつとめは有難いことです。おぢばの寒い冬の朝、皆様も一度どうですか?心が洗われます
よ!

 

名古屋刑務所天理教祭に参加して (H14年12月号掲載)

 去る十一月十六日名古屋刑務所にて天理教祭が開催されました。当日は前会長様祭主のもと前半がおつとめ・講話。後半はジョイフルサウンズの演奏が行われました。
 名古屋刑務所内での事件直後の事なので、常とは少し異なる雰囲気の中でつとめさせて頂き、また、こう言う時だからこそ受刑者・刑務官の皆さんの心が少しでも安らぐように努めさせて頂きました。参加者の声を紹介したいと思います。

「刑務所でのおつとめ」

江口 八十三(三渕・後継者)

  刑務所でおつとめをするから手伝って欲しい、と声を掛けられ最初はびっくりしました。私はおつとめは教会でつとめるイメージがあったからです。
 今回で十二回目の天理教祭の開催と聞きました。一年に一度、一時間の天理教祭の時間を設けて頂ける迄のいきさつや、受刑者の生活、事件被害者の方々の話を前会長が行きの車中でされました。天理教祭の後には受刑者の何人か天理教のお話をして下さいと言われると聞き、刑務所でおつとめをつとめるのは、にをいがけに繋がると感じました。
 教祖ひながたの道は、つとめ完成への道と教えられますが当時はおつとめが自由につとめられなかったり、その後はおつとめをつとめるにも種々と制約が付いた時代が続いたと聞きます。今はどこでも自由に、それこそ刑務所の中でもつとめられます。
 おつとめで助けて頂ける天理教。祭文を奏上される前会長様の、凛とした声で心が勇み、受刑者の人達が更生して頂けるように、皆さんと共に願い、おつとめをつとめさせて頂きました。

「初めての天理教祭」

奥田 人志(真江南・後継者)

  浪一分教会の会長さんにお誘いいただき、天理教祭に参加させていただきました。話には、聞いておりましたが、どんなものかは、ぜんぜん分からず、少しの緊張と、未知の世界に足を踏み込む期待感を感じておりました。
 当日、名古屋刑務所に向う車の中で、浪一の前会長様から、天理祭を行う一時間という枠をもらうために、七年かかったことなど、並々ならぬ努力があったことを聞かせていただきました。いっそう心を引き締め刑務所に到着。中に入ってみると、そこは、未知の世界。別世界に足を踏み入れたと思っていると。そこに、太陽の日差しを感じました。親神様は、どこに住んでいるものにも、どんな人間にも分け隔てなく、ご守護くださっていることを、改めて感じさせていただきました。
 おつとめをさせていただいている間中、集まった受刑者の方々に、心の入れ替えていただき、親神様がお望みになる人間へと変わっていただけるよう、真剣に心を込めてつとめさせていただきました。
 このような経験は、そうそうできるものではありません。この度感じさせていただいたことを、しっかり心に刻み込み、これからの信仰生活に、生かしてつとめさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

「一列は兄弟」

奥田 喜宗(真江南・よふぼく)

  初めて天理教祭の事を聞いたとき驚きました。普段自分がにをいがけに回っても、誰一人話を聞いてもらえないけど、刑務所という所で天理教の話が聞いて頂けるなんて、こんな素晴らしいものはないと感じました。
 刑務所という所は、何かしら法に触れる事をした結果、受刑者と呼ばれる立場の方々が集まる所なのですが、私のイメージの中で、その受刑者は凶悪犯を思い出させる様な人達がいるのだと思っていました。そのため実際に幕が開いた瞬間は、舞台と席の間には大きな壁を感じてしまいました。しかし、よく見てみるとそこには、近所や街角にいてもおかしくない、ごく普通の人達がこちらを向いていました。
この時思い出したのは、おふでさきの
「 一れつにあしきとゆうてないけれど一寸のほこりがついたゆへなり」( 一 53) 
の一首です。人は皆、生まれつき悪い人はいないけれど、一寸のほこりがつけば誰もが人に迷惑をかける可能性があるという訳です。『八つのほこり』と私生活を照らし合わせてみれば、ほこりを積まない日は皆無に等しい事に気付きます。もしも私が我欲に走り続ければ、いずれ刑務所でお世話になるかもしれない。逆にほこりを払う方法を知っていれば、受刑者の方々もここにはいなかったかもしれないと思いました。こう感じた時、自分と受刑者との壁は薄らぎました。
 今後もこの天理教祭を通して、多くの方に少しでも神意に触れて心の向きを変えて頂ければと願います。

 

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